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【最近の大工集団欅 Vol.43』】





2015年4月29日

今日は4月29日、「昭和の日」ですね。
4月29日は、もともと昭和の時代には「天皇誕生日」という祝日でしたね。
昭和天皇が崩御され4月29日は「みどりの日」となりました。
更に2007年からは「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」として「昭和の日」となりました。

今日は昭和天皇のことを少し書いてみようと思います。
前もって書いておきますが、以下のことを友人に話すと信じてくれない人がいるのです。
でも、元GHQの通訳ジョージ・キザキ氏や、元GHQボナー・フェラーズ准将、その他の人が同じ事を証言していますので下記の話は事実です。


それは昭和20年9月27日のことです。
昭和天皇が一人の通訳だけを連れて、マッカーサーのもとを訪れました。
『ついに天皇をつかまえるべき時が来たぞ!』
事前に連絡を受けていたマッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じていました。

すでにこの時点で、天皇陛下をどのようにするのか、GHQの中でも議論が交わされていました。
方針は大きく分けて3つありました。
 1 東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
 2 日本共産党をおだてあげ、人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
 3 支那に亡命させて秘密裏に殺害する。
いずれにしても、昭和天皇を亡きものにすることが決められていたのです。

マッカーサーは、昭和天皇が命乞いに来るのだと思っていました。
ですから彼は、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしませんでした。

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)

このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名です。
当時の米国は、トウモロコシが主たる産物でした。
これが小麦にとってかわるのは、日本占領後に、日本の農林10号(小麦)が米国に渡ってからのことです。
ですので、当時トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴でした。

パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは、長時間は咥えていれません。
口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから昭和天皇をあからさまに見下した態度であったわけです。

そのマッカーサーに対し、昭和天皇は直立不動の姿勢をとられ、国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このようにおっしゃられました。

「日本国天皇はこの私であります。
 戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
 私の命においてすべてが行なわれました限り、
 日本にはただ一人の戦犯もおりません。
 絞首刑はもちろんのこと、
 いかなる極刑に処されても、
 いつでも応ずるだけの覚悟があります」

困ったのは通訳でした。
その通り訳していいものか?
けれど昭和天皇は続けられました。

「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が住むに家なく、
 着るに衣なく、食べるに食なき姿において、
 まさに深憂に耐えんものがあります。
 温かき閣下のご配慮を持ちまして、
 国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも、自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが常識です。
ところが昭和天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても・・・」と淡々として申されたのです。

マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを机に置きました。
そして椅子から立ち上がりました。
そして昭和天皇に近づくと、今度は昭和天皇を抱くようにして椅子に座らせました。
部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで臣下のように掛けていただいた昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとりました。
そしてこう言ったのです、

「天皇とはこのようなものでありましたか!!、 天皇とはこのようなものでありましたか!!

彼は、二度、この言葉を繰り返したそうです。
そして、
「私も、日本人に生まれたかったです。天皇陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と言ったそうです。

昭和天皇も、立ち上がられました。
そして涙をポロポロと流しながら、昭和天皇は言われました、
「私の命をかけて、マッカーサー閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみご高配を賜りますようにお願いいたします」
と申されたのです。

その後マッカーサーは、昭和天皇を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開け、昭和天皇をお見送りしました。
そして、あわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を180度変更するあらたな命令を直ぐに下しています。

このことがあった後、マッカーサーは、
「昭和天皇は磁石だ。私の心を吸いつけた」
と言ったそうです。

更にGHQではこんな事もありました。
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍GHQ総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされていたそうです。
「日本人は天皇ヒロヒトのせいで父親や夫が殺されたんだからね。旅先で石を投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神様じゃなくて人間だ、ということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ」
ところがその結果は高官達の期待を全く裏切るものでした。

昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られました。
行程は3万3千キロ、総日数165日です。
各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことはなかったのです。

英国の新聞は次のように驚きを述べました。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」
「イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれている。」
「それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?」
「欧米人の常識では理解できないことが起こっている。」

余談を書きます。
フランスに、世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)という本があるのですが、その本の中で彼は、

「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違ってゲルマン民族の大移動以降、内部で争うことはあっても、よそから制圧されて文化や社会が断絶するようなことがなかった。それによって内部の順調な発展があった。
我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない、この異例の特権を、言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の基本的な要素のひとつだったと考えても決して不当ではない。」
と書いています。

西ヨーロッパでは、歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し、世界を征服するだけの国力をつけ、18世紀後半以降の市民革命を実現し、近代化を実現することができたのです。
そしてそのことは、「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない異例の特権」と、マルク・ブロックは書いているわけです。

ここに書かれたゲルマン民族の大移動というのは、4世紀から5世紀にかけて起きた事件です。
そしてこの大移動をもって、西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、まったく別な中世へと向かうわけです。

ところが日本では、4世紀から5世紀といえば、大和朝廷の発展期です。
そしてその大和朝廷は、弥生時代に倭国を築いた朝廷が、そのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。
その弥生時代が縄文時代の延長線上にあり、弥生人は決して渡来人などではなく、縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人であることは、先日書かせていただきました。
その弥生時代が、まさに卑弥呼の登場する時代です。
そしてその倭国が東上しながら古墳時代をつくり、そして奈良県の大和盆地に都を構えて、これが大和時代です。

その大和朝廷が第三回の遣隋使のときに、「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」と書いた国書を持参しました。
これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。
西暦608年の出来事です。

そしてその大和朝廷が「日本」を名乗ったのが689年です。
つまり、「天皇の御存在」は、「日本という国号」よりも「古い」のです。

そして万世一系、昭和天皇は第124代の天皇です。
ご在位は、歴代天皇の中でも最長です。

昭和天皇のお名前は「裕仁(ひろひと)」です。
明治天皇がお付けになられたお名前です。
「裕」は、易経の「益徳之裕也」、詩経の「此令兄弟綽々有裕」、書経の「好問即裕自用即小」、礼記の「寛裕者仁之作也」からとられたのだそうです。

その意味は、「広く大きな心で国を治め、人類の幸福に尽くすように」です。
そしてまさに、昭和恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが、昭和天皇でした。

その昭和天皇のご辞世をご紹介しましょう。

 やすらけき 世を祈りしも いまだならず
 くやしくもあるか きざしみゆれど

この御製は、昭和63年8月15日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
これが陛下の御辞世となりました。

「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、それはいまだなっていない。そのことが悔しい。きざしはみえているけれど、そこに手が届かない」
という意味だと拝します。
昭和天皇は、お亡くなりになる直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。

どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、私達は日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。




2015年4月28日


昨日は、お客様の高木ご夫妻の紹介で北國新聞社の取材を受けました。
とは言っても大工集団 欅のヤギ達が、なのですがね。

ところでヤギは家畜なのでしょうか、それともペットなのでしょうか。
大工集団 欅のヤギも県の家畜保健所に登録してありますし、古来から家畜として人と共存してきたのですから家畜なのでしょうね。
でも私達はペットとして飼っていると思っていました。
今回の取材を受けて改めて家畜ではなく、ペットとして飼っていると自覚しました。

取材を受ける子ヤギ達




2015年4月27日


20日に書いた日本の住宅寿命があまりに短いので皆さんから驚かれています。
27年ですものネ。
40代で家を建てても一生はもちません。
私は今の家を40歳の時に建てたのであと7年しか住めないということです。
(歳がバレましたね)
もしそうならば、これから老後を迎えるにあたって困ったものです。

家は一生に一度と言われています、大変高額な買い物ですからね。
きっと一般人の買い物で一番高額でしょう。
その次が車でしょうか。
でも、車の金額に比べれば家の金額は一桁違いますから、いかに高額な買い物か今更ながら驚きます。

日興リサーチセンター『投資月報』1996年9月号の
業界研究「我が国の住宅政策と今後の住宅市場」より引用

欧米の住宅寿命が長い理由の一つに「付加価値をつけて売る」という考え方があるのです。
日本では長く住むほどに家は痛み、その価値は低下して最終的にはほとんどタダみたいな価格になってしまいますが、欧米では住むほどに価値を上げて高値で転売できるのです(もちろんすべてではありません)。
こう書くと「欧米では古い家ほど価値がある」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
オーナー自身が手を加えて家をグレードアップするのです。
住みながら家の価値を自分であげてゆくのです。
アメリカ映画でもオーナー自身が家のペンキを塗ったり、芝の手入れをする場面がよく出てきます。
欧米では「家の事は自分でやる」という習慣があります。
それが日本でも近年盛んに行われているDIY (do it yourself)です。
自分の頭と手を使って自分に合った快適な住まい空間を楽しみながら創造しようというポジティブな行動力です。
こんな家への愛着が、耐久性に優れた住宅環境を支えているのかもしれません。
ビジョンを持てば、家造りが変わります。

さて、家を造るにあたってのお客様の最大の悩みは「建築費」でしょう。
もちろん安いに越した事はありません。
大工集団 欅が建てる家は、坪単価が平均で50万円ほどです。
もちろんもっと良い素材を使えばさらにコストはアップします。
これを高いと見るか、安いと見るかはそれぞれでしょうが、目先の金額ばかりに目を奪われてしまうと本当の家の価値が見えなくなってしまうのも確かです。
仮に30年しか持たない家を1,500万円で購入したとすると、単純計算で年間50万円で消費してゆくことになります。
けれど、同じ50万円を消費するにしても、80年建替えの必要がなければ4,000万円もする家を建てる事ができるのです。

家を売って住み替える欧米と違い、日本では家を購入した場所に長く住み続けるのが普通です。
そんな日本だからこそ、手をかける事で孫の代まで住み続けられる家が必要だと思うのです。
何歳までその家に住み続けるつもりですか?
しっかりと想像してください。
今こうしている間にも、日本には27年しか持たない家が次々と建築され続けています。
27年後にはそのほとんどがゴミとして処分されてしまう資源の無駄使いにもかかわらず。
そんな家を大工集団 欅は建てたくありません。

大工集団 欅は、一人でも多くのビジョンを持ったお客様と出会い、夢を現実のものにするお手伝いをしてゆきたいと思っています。




2015年4月26日

今年もプランターにモロッコインゲン等を植えるプランターを洗っていたら、幾つかが壊れていました。
もう14・5年も使ってきたのですからよくもった方だと思います。
これも水に強い米杉を使って作ったのでもったのです。


では新しいプランターを作ろうと思い、倉庫にある材料を頭の中で考えていたら『そうだ、草槇(くさまき)で作ろう』と思いつきました。
木タイルに使うために製材した草槇がたくさん倉庫にあるのを思い出したのです。
草槇ならば水にも強く、プランターを作っても長持ちします。
なんとも贅沢なプランターが出来そうです。

「草槇(くさまき)」は高級樹種ですが、石川県では意外と勘違いしているお客様が多いようです。
「檜(ひのき)」の一種だとか、能登の「あて」の一種だとか思っている人がいますが、「草槇」は「青森桧葉(あおもりひば)」のことなのです。
石川県では何故「草槇」と言うのでしょうか。

更にややこしい話なのですが、他県では「くさまき」とは「イヌマキ」のことです。
「イヌマキ」は本州、四国、九州、沖縄に分布しており、さらに台湾、中国大陸南部にもみられます。
つまりイヌマキは暖かい地域によくみられる樹種で、静岡地方でよくミカン畑、茶畑の周囲に垣根のようにして植えられているのをみることがあります。
ですから「くさまき」と「イヌマキ」では全く別の樹種です。
ややこしいでしょ!?

良い木の香りと言えば「檜(ひのき)」とお答えになる人は多いと思います。
でも、私は数ある木の中で「くさまき」の香りが一番好きです。
このブログを読んでいるみなさんにも、「くさまき」の香りを、是非かいでもらいたいと思います。

今では伐採制限で、青森でも製材しているところは少なくなってきており、こちらに流通する量も少なくなりました。
もっとも、最近の住宅で、「くさまき」を使う家自体も少なくなってきました。
石川県では、昔は「くさまき」の柱や土台を使って家を建てていました。
今考えるとナント贅沢な家なのでしょう。
シロアリや腐れにも強く、何十年も前に建てた家でも柱、土台は現在もしっかりしています。
今「くさまき」を使うとしたら和風住宅の玄関引き戸ではないでしょうか。

石川県では能登の「あて」の木もあるのですが、よく曲がったり、ねじれるので(最近では品種改良も進みそういうことは少なくなったようですが)「くさまき」が重宝がられました。
北前船の影響でもあるのでしょうが、江戸時代から、青森より「くさまき」を運んできて、家を建てていたのです。

青森では、「くさまき」の粉をかけてラーメンを食べさせる『ひばっこラーメン』なるものがあるそうです。
どんな味がするのか食べてみたいですね。


また余談です。
木の名前には泣かされることがあります。
例えば前述の「档(あて)」、石川県内では能登産のヒノキアスナロですが、他県、特に関東では「アテ」というと不良材のことです。
針葉樹の丸太を切り分けたときに、年輪の一部が太く、濃い色になっている場合があります、これを業界用語で「アテ」というのです。
つまり、使えない木のことなのです。
そのために最近では「档(あて)」を「能登ヒバ」と言っています。

「あて」はヒノキ科、アスナロ属の翌桧の変種です。
詳しくは大工集団 欅のホームページの「あて」のページをご覧下さい。
【ココをクリック】




2015年4月25日


日本の若者世代の「日本が好きか」という調査の結果をご紹介します。
男女3000人調査ですから調査の規模としては大きな調査と言えるでしょう。

電通総研は関東1都6県・関西2府4県・東海3県のエリアに住んでいる高校生、大学生、20代の社会人(15歳〜29歳)の未婚の男女3,000人を対象に「若者まるわかり調査2015」を実施しました。
日本のことが好きかどうか聞いたところ、「日本のことが好き」という回答の統計が全体で89.5%、性別・年代別でみると、女子大学生が93.4%と最も高く、次に男子高校生と20代社会人女子がともに91.0%という結果となった。

男女別、年齢別の調査結果には大きな変動は見られません。
全体しては89.5%の日本人の若者たちが「日本が好き」と感じています。
女子大生の「日本好き」が93・4%というのは興味深い数字ですね。
私は日本の未来は女性の行動力にかかっていると見ています。

「日本が好き」、こう発言するだけで「右翼的な発言」と非難する風潮が日本にまだあります。
ならば日本の国民の90%は右翼なんでしょうか?
右翼という言葉より「国を愛する者」の方が適切ですね。
「日本が好き」な日本人は男女にかかわらず勇気を持って行動しましょう。


さて、今年の靖国神社の春の例大祭は4月21日から23日までの3日間行われました。
春の例大祭に皇族として参拝されたのは三笠宮家の彬子女王殿下と瑶子女王殿下でした。

彬子女王殿下         瑶子女王殿下

そして安倍内閣の現職閣僚として参拝したのは高市早苗総務相、山谷えり子国家公安委員長、有村治子女性活躍担当相でした。
いずれも女性だったことは「女性の芯の強さ」を示すものでした。
まさにこれらの方々は「やまとなでしこの代表」ですね。
この女性達も「日本好き」とお答えになるでしょう。

私は決然として靖国神社に参拝された5名の女性の方たちの勇気を決して忘れません。




2015年4月24日


喫茶大工集団 欅は国道157号線より見えるとはいえ、田んぼ2枚分入ったところにあるため、よくお電話で場所を聞かれます。

そんなときに「山の裾野に喫茶と書いた看板が見えますから・・・」とお話しすることがあります。
でもその看板の字が薄くなり読みにくくなったので、文字を書き直しました。
今回で2回目です。

以前の看板          書きなおした看板

大工集団 欅の看板ほど簡単な物はないと思います。
木で骨組みを作って木の板に「喫茶」とだけペンキで文字を書いた物です。
骨組みは欅材です。
こんな簡単な看板なのですが、皆さんの目印になっているんですね。

喫茶大工集団 欅がオープンしたときはこんな簡単な看板さえも出していませんでした。
お客様より場所を聞かれる電話を頂くと近くに目印になる物も無いので、しかたなく出した看板でした。

これでも皆さんの目印になっていると思います。



2015年4月21日


今日も韓国の桜についてです。
もう、本当に、ウンザ〜リしているのですが・・・。
7日に書いた韓国人ムン・ギソン氏の桜について再度投稿がありました。
野放しにしておくとエスカレートしてゆくのが韓国人のやり方ですから、ここで更に反論しておきます。
よろしければ読んで下さい。

大工集団 欅の庭にある 『琉球薄墨桜』です。

7日書いたムン・ギソン氏は昨日、「李承晩元大統領が1943年4月8日にワシントンDCで済州島の桜を植えるイベントを開催しようとし、東京市が寄贈した染井吉野が「日本桜(Japanes Cherry Trees)」と名付けられたのを「韓国桜(Koeran Cherry Trees)」と変更するようアメリカに要求した」と記事にしました。
この要求に対し米国政府は「証拠不足」としたものの、「日本桜」から「東洋桜(Orientl Cherry Trees)」への変更を提案したという。
ムン・ギソン氏は、この李承晩元大統領の行動を「30年以上前に日本の樹に変身させられた我が国の桜の、もう一つの独立宣言だ」と賞賛しています。
その一方で、韓国青瓦台(大統領府)のホームページ上に「米ワシントンの桜祭りは、1912年尾崎行雄東京市長が米日の友好増進のために桜3000本をプレゼントしたことから始まった」という説明があるのを問題視し、「ワシントンの桜祭りは、日本をPRする巨大な文化商品になっている。大統領府のホームページは当然ワシントン桜の故郷は韓国であり、初代大統領李承晩をはじめとする我が国の先覚者たちの努力があったことを記さねばならない」と指摘している。

ホンマカイナ!?
もういい加減にしてほしい。

反論です。
李承晩元大統領の「日本桜」から「韓国桜」へと変更するようアメリカへの要求に対し、米国政府が、「日本桜」から「東洋桜」への変更を提案したというのなら、何故今になっても「日本桜」のままなのでしょう。

7日にも書いたとおり、ポトマック川の桜も、ワシントンDCの桜も間違いなく日本のものです。
少し調べればそれを裏付ける資料もたくさん出てきます。
きっとムン・ギソン氏もそれは知っていると思いますよ。
ただそれを彼ら韓国人は認めたくないのです。
日本を貶めることなら嘘をついてでも何でもするのが韓国人なのです。
間違いを指摘されると、それに対する反論の代わりに次々と新たな嘘を重ねるのが韓国人のやり方です。


1598年に秀吉が、醍醐で花見する事になったから、「桜700本植えてくれ」という短期発注をしています。
もともと桜のなかった醍醐に700本の桜が取り寄せられて、総門から仁王門に至る馬場先から槍山までの両側に植えられました。
従って、700本位なら、江戸時代以前でも即納体勢にあったのです。
その後の江戸時代には平穏な暮らしが続き、植木職人も増え、桜の植樹は多くなりました。
明治には桜3000本の苗木は即納体制だったでしょう。
ムン・ギソン氏は植木職人等が大幅に減ってしまった現在の日本を見て、昔はもっと少なかったに違いないという思い込みで、妙な主張をしているのが見え見えだ。

確かに李承晩元大統領も桜を贈っています。
李承晩が、尾崎市長の真似をして1943年に米国へ植物を贈ったが、34種200本でした。
その内、桜はたった4本でした。
調達数に困ったのです(裏付け資料があります)。
しかも、殆どの木は到着までに枯れていた。

染井吉野が朝鮮原産というなら、ポトマック川の桜が韓国から贈られた物というなら、反論があるなら、証拠や資料をあげてしてください。
当方には此処に書いたのはほんの僅かな資料ですが、公文書を含む数多くの資料があります。

韓国には「日本に関することなら嘘をついても良い」という考えがあるようですが、ハッキリ反論する日本人もいることを知るべきです。
以前に韓国が『フェンシングは韓国発祥』と言ってヨーロッパ各国から笑われましたよね。
桜もそうです。


そもそもこの在米韓国人ジャーナリストのムン・ギソン氏という韓国人は以前に
「NGAの検索サービスは世界の人々が広く利用している。韓国と米国が言葉ばかりの同盟国でないなら、『East Sea(東海)』や『Donghae(東海の韓国語発音)』が正しく検索できるよう、韓国政府の外交的努力が必要とされる」
とNGAを訴えています。
これは韓国が国際的に通用している「日本海」を「東海」に変更しようとしている問題から出ています。
その他にも日本に関する歴史的事実を嘘だと韓国に都合の良いように報道しています。
でも彼はそれは間違いであり、嘘であることは知っていると思います。
それでも日本を悪者にしたいのは戦後の韓国の反日教育によるものなのでしょう。
つまり、この人は日本に対して相当コンプレックスをもっているのです。


余談を一つ書きます。
1912年(明治45年)3月に荒川堤の桜並木の桜を穂木とした苗木を米国に贈り、その桜がポトマック川に植えられた事は7日に書きました。
その縁から、荒川とポトマック川は姉妹川の関係にあります。
1980年代に荒川堤の桜が枯れてしまったとき、ポトマック川の桜をワシントンDCが東京都へ贈呈し、それを荒川堤に植えたという事もありました。


余談の余談です。
日本人の心はよく、「桜」に喩えられます。
桜が一年のうちに咲くのは僅かな日数です。
激しく咲いて、そして散っていく、それが日本人の美意識を刺激して止まないのです。
新渡戸稲造は、「武士道の象徴は桜の花だ」としています。

新渡戸稲造の著書『武士道』に、こんなことが書かれています。
「私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものではない。サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも『私たち日本人の美的感覚に訴えるのである。私たちはヨーロッパ人とバラの花を愛(め)でる心情をわかち合うことはできない。バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラは、その甘美さの陰にとげを隠している。バラの花はいつとはなく散り果てるよりも、枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は死を厭(いと)い、恐れているようでもある。しかもこの花はあでやかな色合いや、濃厚な香りがある。これらはすべて日本の桜にはない特性である」

西洋人がバラを愛するように、日本人は桜に対して特別な感情を持っている。
桜は事実上の日本の国花であり、桜には日本人特有の美意識が反映されています。
桜と西洋人の好きなバラを対比すると、薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど、棘をかくしている。
そしてなかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。
しかし、桜の花は香りは淡く人を飽きさせる事なく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。
これこそが、日本の大和心の象徴なのです。


長くなりました、最後まで読んで頂き、有難うございます。




2015年4月20日


1285年前の730年(天平2年)4月20日(当時の太陰暦では3月29日)に国宝の薬師寺東塔(三重塔)が建立されました。
現在は平成21年より解体修理をしています。

薬師寺の東塔は1285年もの年月が経った木造建築です。
今日はこの東塔のお話しと、住宅の寿命のお話しです。


まず、塔とは本来お釈迦様のお墓を意味します。
インドで梵語のストゥーパが音訳されて卒塔婆(そとうば)となり、それが塔婆、更には塔と表現されるようになりました。
お釈迦様のご遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を埋葬して盛り土をしたものが原型です。
その塔婆を遠くからでも拝めるように、また尊敬の気持ちから、より高い台の上にお祀りするようになったのです。

薬師寺東塔は一見すると六重に見えますが、実は三重の塔です。
これは各層に裳階(もこし)と言われる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれています。

塔の上層部を相輪(そうりん)といいます。
その更に上部に尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、水煙が祀られています。
水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空に御仏を讃えています。

東塔は薬師寺で唯一創建当時より現存している建物で、1285年の悠久の時を重ねてきた歴史をその姿から感じられます。

平成21年より解体修理に着手しており、現在は覆屋に覆われておりその姿を拝むことは出来ません。
修理の概要として、瓦、木部、基壇などを全て解体し、地下の発掘調査が行われます。
その後、傷んだ部分の修繕を行いながら再び組み上げ、平成31年の春に修理が完了する予定です。

それにしても1285年前の木造建築を今でも観られるなんて日本人の技術は1285年前にも高度であったことが分かりますね。

ついでに世界最古の木造建築をご紹介します。
「現存する世界最古の木造建築物群」と言えば皆さんもご存じでしょう。
1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
そうなんです、法隆寺です。
建造まもなく火災にあって再建されたとかされないとか諸説ありますが、年輪年代測定の結果、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は668年(天智7)から685年(天武14)ころに伐採されたものであることが分かっています。
五重塔の心柱の用材は更に古くて594年(推古2)に伐採されたと推定されています。
今から1421年も前なのです。
1000年以上も経ってなお存在している、信じられませんね。

ところで、現在の日本の住宅の寿命は日本27年と発表されています。
ちなみに、アメリカ103年。イギリス141年です。

先進5カ国の住宅寿命年数

日本の住宅はイギリスの住宅に比べ5分の1年しか住めないことになります。
家の寿命が27年ということは、30歳で家を持ったとして住宅ローンの終わる定年前には、もう一度建て替えなければならいないということです。
うそのような本当の話なんです。
現実に退職金をリフォームや立て直しに使わなければ住めないような家が今の日本には氾濫しているのです。
今の住宅建築の部材や工法を考えると、これからはもっと短くなるかもしれません。

なぜ日本の住宅はこんなにも短命になってしまったのでしょう?
地震大国でありながら、数々の歴史的建造物を残してきた日本の伝統建築技術があったのに・・・。
この誇るべき建築技術の衰退を招いた原因としては、いくつかの理由があげられます。

まず、ハウスメーカーによる過剰ともいえる採算性の追求があると思います。
安くて早い家の量産です。
そのニーズに応えるべく誕生した安価な新建材の氾濫もありますし、その他にもこのようなことがあるのではないでしょうか。


日本の家屋が短命になった原因には、「安く・早く」の家造りが生んだ品質低下の悪循環があります。
仕方のない時代の流れと受け入れることもできるでしょう。
しかし、私が長年家を造ってきて肌で感じる大きな変化があります。
それは「お客様の家作りへのこだわりの低下」です。
情報が簡単に手に入る時代ですから、お客様は本当によく家の事を知っています。
打ち合わせの時にも驚くような専門用語が飛び出したりもします。
ですが、しっかりとした価値基準(信念)を持っているお客様は以外と少ないものです。
安くするため、手抜きをされない為の知識は豊富でも、家造りにおいて何をいちばん重要とするのか、どんな家に住みたいのか、絶対に譲れないこだわりは何か、それを語れるお客様は多くありません。
家は一生の買い物です。
本気で悩んで、検討して、値段交渉して。
時にはお客様と喧嘩になることもあります(笑)。
でも本気でぶつかった家ほど、間違いなく「最高の家」が建ちます。

格好や雰囲気ばかりに気を遣っていては良い家は出来ません。
こだわりを持つ事で、必要なもの、いらないものもはっきりと見えてきます。
デザインは家が建っている年月を考えると、その間には流行り廃りがありますから、そればかりに気を取られてはいけません。
いらないものにお金をかける必要はありません。

大工集団 欅はそんな家を建てています。




2015年4月19日


2005年の今日4月19日、ベーシストのニールス・ペデルセン(Niels-Henning Orsted Pedersen)が58歳という若さで亡くなっています。

欧州出のベーシストの中でもピカ一の活躍をした人でした。
特に1970年代以降はオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)や、ケニー・ドゥリュー(Kenny Drew)と相性が良かった。
「馬鹿テク」という形容がそのままピッタリ当てはまる素晴らしい演奏技術に、歌心も備わっていいたのですから怖いもの無しでした。
『ウッドで速弾き』といえば、まずこの人が挙がる、という方も多いはずです。
ウッド・ベースをまるでギターの様に軽やかに弾きました。
ギターどころか本多俊夫氏によれば「ニールス・ペデルセンはウクレレのようにウッド・ベースを弾く」と言ってましたね。
ペデルセンは「ロン・カーターなぞ音程が滅茶苦茶だ」と批判していたが、確かに大言吐くだけの技量の持ち主でした。
元祖超絶技巧ってな感じで、スリーフィンガーでなんとも軽やかにピッキングしました。
弾き過ぎなどと言われましたが、今じゃみんなそうだし、先駆的でもあった。
それに妙に前衛的な道に走らずに、ケニー・ドリューなんかと落ち着いたものやっていたことも好感がもてました。

・・・なんて、色々書きましたが、つまりは超絶技巧派のベーシストでした。


ニールス・ペデルセン
(Niels-Henning Orsted Pedersen)


ニールス・ペデルセンの演奏で思い出すのはトゥーツ・シールマンス(Toots Thielemansの)『Live in the Netherlands』に入っている『Autumn Leaves ・枯葉』です。
ハーモニカの名手トゥーツ・シールマンスがベースのニールス・ペデルセンとギターのジョー・パスを従えてのドラムレス・トリオの演奏です。
ニールス・ペデルセンはこの演奏でプリングオフを多用しています。
左手の指で弦を引っかくようにして音を出すワザです。
ニールス・ペデルセンのウォーキングベースの特徴は、1拍3連とこのプリングオフの多用で、それによってジャズベース特有のグルーブ感を出しています。
時々多すぎて鼻につくこともありますが、それでもこれがかっこいいんですよね。
この曲のベースを聴くまで、ベースがこんなにかっこいいとは知らなかった。
左手の薬指も独立して使ってるのにあの音程の良さは凄い。

30年ほど前にケニー・ドリュー・トリオで来日したのですが、聴けなかったことが悔しい。




2015年4月15日



上の写真はどこか可笑しいでしょ?
みんな同じ背番号『42』を付けています。

こんな写真もあります。

マリナーズ時代のイチローって42番でしたっけ? LAドジャース時代の黒田投手って42番でしたっけ?



今日、4月15日のメジャー・リーグの試合では選手全員が背番号『42』の試合が観られるはずです。
メジャーリーグの背番号『42』は、メジャー・リーグすべての球団の永久欠番です。

その背番号をつけていた人こそ、近代メジャー・リーグ初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson)でした。

では何故ジャッキー・ロビンソンがつけていた背番号『42』が一球団ではなく、全球団の永久欠番になったのでしょう。
今日は少し長くなりますがそのことを書きます。

黒人選手・ジャッキー・ロビンソンが活躍したのは戦後間もない1947年から1956年のちょうど10年間でした。

キング牧師による差別撤廃運動が認められ、「公民憲法」が認めれたのが1964年でした。
ジャッキー・ロビンソンが活躍した時代では黒人差別は当然のものと考えられていたのです。

当時の大リーグMLBは白人選手のみのリーグとして存在し、黒人選手はニグロリーグでプレーすることしか許されていない暗黒の時代でした。

当時の黒人差別の中で大リーグに挑戦することは想像をはるかに超えるものでした。
ジャッキーはやはり差別にあい、批判や嫌がらせも多数あったのですが、決して報復などせず、紳士的にふるまいました。
黒人が「でしゃばる」ことを良く思わない投手から、フラッシュボールどころか、頭めがけて何度も、何度も、何度も、ボールを投げられたことがあったそうです。
黒人の選手とはプレイ出来ないと、数人の白人選手はチームを後にしたこともありましたむ。
チームメイトすら彼と同じテーブルで食事をしたり、一緒にシャワーを使うのを嫌がったそうです。
また、地元のファンもロビンソンに生卵を投げつけ、彼の家の窓ガラスを割るということすら起きたそうです。

本拠地以外の観客は彼にむかって罵詈雑言を投げつけた。
相手チームの選手がグラウンドに黒猫を投げ込み「お前の親戚がいるぞ!」となじったこともありました。
故意のスパイクでユニフォームが裂け流血した事もありました。
それでも、ジャッキーは常に紳士的な態度をとり、プレイで周囲を黙らせていきました。

彼が紳士的であり続けた理由は、彼を「黒人初のメジャーリーガー」に選んだ会長との約束があったからでした。
彼は1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーにチームへ誘われます。
人種差別的な攻撃に怒り、手を出してしまったら、「それ見たことか、やっぱり黒人は紳士のスポーツはできない」ということになってしまいます。
リッキーは、ロビンソンがそんな状況にも耐えることの出来る男だと踏んだのでした。
「黒人選手がプレーした前例のない環境の中で、偉大なプレーヤーでありかつ立派な紳士でなければならない、差別に対して仕返しをしない勇気を持つんだ」
会長がロビンソンと交わした約束の言葉です。

そして、ロビンソンの人柄と実力が認められ始めたのです。
人種差別的な野次を飛ばす観客やロビンソン相手にだけラフプレーを仕掛ける相手チームの選手にチームメイトがロビンソンを守るようになりました。

更にレオ・ドローチャー監督がこう一喝したという。
「肌が黄色でも黒でも、シマウマみたいなしま模様でも構わない。オレが監督で、チームのためになる選手を起用する。従えない奴は去ってくれ!」

その姿はやがてチームメイトの白人達との友情へと実を結び、新人王やMVPなども獲得しました。
更にはチームの優勝へ多大な貢献を果たしました。

優勝を決めた後、観客はロビンソンの名前を叫びながらフィールドになだれ込み、ロビンソンを肩にかついでフィールドを一周した。

黒人選手がファンに慕われるという姿はその当時では驚くべきことでした。
その活躍は黒人に対する偏見を変えるきっかけとなったのです。

ロビンソンの活躍でアメリカの黒人は大きな自信を持ったといわれています。
そして、白人の黒人に対する見方の変化にも貢献しました。

ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』にあるような黒人は「リンチの対象」から「国の指導者」へと、わずか40年あまりの間に、黒人の地位は著しく向上したのですが、現代史上、黒人の地位向上にもっとも貢献した人物は誰かと問われたら、私は迷わず「ジャッキー・ロビンソン」と答えたい。
(統計上はキング牧師だそうです)

1955年には世界一を掴み、1957年に現役を引退しました。
この功績が認められ、1962年にMLB殿堂入りをしました。

そして1972年、交通事故によって不慮の死を迎えてしまう。
死亡時は53歳という若さでした。
ロビンソンの死後も、その功績は賞賛され続けています。

彼がいつでも内なる“怒り”と戦っていた事実が明らかにされたのは、ずっと後になってからのことでした。
彼が自分自身や自分の人種に向けられる偏見と、常に戦っていたと明らかになったのは、自叙伝やほかの多くの外伝が後年、出版されてからのことです。
紳士的に振る舞いながらも、やはり感じずにはいられなかった怒りの感情があったのですね。
それでも紳士的に振る舞ったからこそ、本当の紳士なのですね。

そして2004年、MLBメジャー・リーグは「ジャッキー・ロビンソン・デー」を制定しました。
ロビンソンのデビューの日である4月15日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」とし、この日だけは誰でも背番号『42』をつけてプレーすることが許されています。
ナント粋なはからいなのでしょう。

この日は多くの選手が本来永久欠番である背番号『42』を付けてプレーします。
中には全員が『42』のチームもあります。

日本のプロ野球では「42=死に」と連想されることから、あまり日本人選手には好まれませんが、日本プロ野球選手名鑑を見ると日本プロ野球にきている外国人選手は競うように背番号『42』をつけたがっている様子が伺えます。
背番号『42』の外国選手は

  ベイスターズのブランコ
  巨人のボウカー
  中日のブラッドリー
  カープのバリントン
  阪神のコンラッド
  日ハムのアブレイユ
  ホークスのパディーヤ
  楽天イーグルスのレイ

上記以外にも過去にも多数の外国人選手が背番号『42』をつけていました。

ジャッキー・ロビンソンは後の野球以外の黒人選手からも尊敬され続けています。
タイガー・ウッズも「ジャッキー(ロビンソン)のように、多くのマイノリティー(少数民族)に勇気を与えたい」と“大先輩”に敬意を表したことでも証明されています。

アメリカの歴史の中で最も重要な黒人といえばマーチン・ルーサー・キングでしょうが、僅差で2位につけるのはジャッキー・ロビンソンです。
ロビンソンの活躍は、後のキング牧師の偉業へとつながったと言われています。

4月15日は選手全員が背番号『42』
アメリカという国は時々洒落たことをしてくれます。

ああ、ジャッキー・ロビンソンの写真を載せるのを忘れていました。
永遠の背番号『42』はこの人です。
ジャッキー・ロビンソン (Jack Roosevelt "Jackie" Robinson)



それにしても私は下の写真が悲しい。

みんな42番なのに、ただ一人55番は誰?





2015年4月14日


今日は4月14日です。
2月14日は女性が男性に愛を告げるバレンタインデー。
3月14日は男性が女性に返礼するホワイトデー。
そして今日4月14日は2人が愛を確かめ合うオレンジデーなのだそうです。


バレンタインデーやホワイトデーで贈りものをして愛を確かめ合った後、オレンジデーでは、恋人や夫婦の愛を確かなものにするため、愛し合う二人がオレンジやオレンジ色のものを贈り合って愛をさらに深める日なのだそうです。

そんなの必要なの?

オレンジは樹にたくさんの実を成らせるので「繁栄」「多産」のシンボルなのだそうです。
またオレンジは「花嫁の喜び」という花言葉を持つことから愛の記念日にふさわしいと、日本を代表する柑橘類の産地であるJA全農えひめ(全国農業協同組合連合会愛媛県本部)が制定したのだそうです。
まぁ、こじつけたものですね。

私は結婚記念日・誕生日など記念日はことごとく忘れています。
ですから家内にプレゼントをしたことがありません。
そんな男がオレンジデーなんて・・・。

じゃあ、5月14日は何の日なんでしょう?
まさか、『さくらんぼデー』といって、恋人や夫婦の愛を確かなものにするため、愛し合う二人がさくらんぼを贈り合って愛をさらに深める日、なんて言わないでしょうね。

6月14日は『イチジクの日』、7月14日は『スモモの日』、8月14日は『スイカの日』、9月14日は『ザクロの日』・・・・。

愛を確かなものにするのは疲れるんですね。



2015年4月13日



大工集団 欅では木の良さを知っていただこうと、喫茶大工集団 欅を営業しています。

近年では喫茶店はどんどん減っていますが、スタバ等の大型のお店は増えています。
以前のように個性のある小さな喫茶店は無くなる一方です。
私が学生だった頃はジャズ喫茶に入り浸りでした。
それよりもっと以前には歌声喫茶というのもあったそうですが、私は知りません。
クラッシック喫茶、絵画喫茶等々、個性のある喫茶があったそうです。
ノーパン喫茶な〜んてぇのもありましたネ。

では、喫茶店はいつから日本に出来たのでしょう。
私はひょんな事からそれを知ってしまいました。
以前に東京の上野広小路に用があり、タクシーを降りたところにこんな看板がありました。




そうなんです。
たまたまタクシーを降りたところが『日本最初の喫茶店発祥の地』だったのです。
人生にはこんな奇遇なこともあるんですよね。

帰宅して調べてみました。

日本でコーヒーが飲める本格的な店、喫茶店が登場したのは、明治21年(1888)4月13日、東京下谷西黒門町に開店した『可否茶館』でした。
200坪の敷地に5間(約9m)と8間(約14.4m)の二階建ての木造洋館だったそうです。
私はその『可否茶館』の跡地にタクシーから降りたのです。

この店ではコーヒーの他に洋酒、ビール、カステラ、パンや一品料理を出していたそうです。
驚くのは、一階にはトランプ・玉突き・クリケット・碁・将棋を揃え, また硯に便箋や封筒もおき、『内外の新聞・雑誌類・その他和漢洋書・書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、更衣室・化粧室・シャワー室などの設備まであったそうです。
二階が喫茶室で、丸テーブル・角テーブルを配置、椅子は籐であったとのこと。

店主は鄭永慶、本名は西村鶴吉という名の日本人でした。
彼は、その頃に華やかなりし鹿鳴館に対して、一般大衆から生み出される文化を築く庶民の社交場を目指し『可否茶館』を作ったのでした。

実際この店には文士や高官、帝国大学の学生といった人々が通ったそうです。
しかし結局は経営が軌道にのることなく、明治25年(1892)、開店から僅か4年ほどで店は姿を消してしまったそうです。

コーヒーは一杯1銭5厘、牛乳入りが2銭、一品料理、パン、カステラなども出していたとのこと。
ちなみに当時, 「もりそば」は8厘だったそうですから、コーヒーはとても高価でした。

オープンには新聞広告まで出しました。
上記の看板にもその写真が貼ってありました。

          可否茶館開業報條
      遠からん者は鉄道馬車に乗ッて来たまへ
      近くは鳥渡寄ッて一杯を喫したまへ抑下
      谷西黒門町二番地(警察署)隣へ新築せし
      可否茶館と云ツパ広く欧米の華麗に我国
      の優美を加減し此処に商ふ珈琲の美味な
      る思はず腮を置き忘れん事疑ひ無し館中
      別に文房室更衣室あるは内外の遊技場を
      整へマッタ内外の新聞雑誌縦覧勝手次第
      にて其価の厳なる只よりも安し咲き揃ふ
      花は上野か浅草へ歩を運はべらるゝ紳士
      貴女幸ひ来館を忝ふして当館の可否を品
      評し給へかしと館主に代りて鴬里の思案
      外史敬って白す

      定価カヒー一碗金壱銭半間牛乳入金弐銭

というふれこみでした。

看板には127年前の1888年4月13日に開店したとありました。



2015年4月8日
例年ならば4月3日にお雛様を片付けて、翌4日から鯉のぼりをあげるのですが、今年は風が強かったり、雨が降っていたりで、ようやく今日になって鯉のぼりをあげられました。

一年ぶりに空を泳ぐ鯉なのですが、曇り空だったので気持ちよさそうとは見えませんでした。
やはり鯉のぼりはスカッとした青空である五月空に似合いますね。



2015年4月7日

今日も韓国の桜についての反論です。
もう、ウンザリしているのですが・・・。
野放しにしておくとエスカレートしてゆくのが韓国のやり方ですから、ここでキチンと反論しておきます。
よろしければ読んで下さい。


アメリカのポトマック川に咲く
日本から贈られた桜

韓国メディア・ニューシスは6日、全米一の桜の名所・ワシントンDCのポトマック川の桜は、日本の桜ではなく済州島の桜だと主張する在米韓国人ジャーナリストのムン・ギソン氏のインタビューを掲載しました。
記事は下記の通りです。

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ポトマック川の桜は、1912年に尾崎行雄東京市長から日米友好の象徴として贈られた桜が植えられたものだが、済州島出身のムン氏は「日本は1910年に米国に2000株の桜の苗木を贈ったが、病虫害感染が確認され、焼却された」と指摘する。
尾崎市長はその後、1912年にワシントンに3020株、ニューヨークに3000株を贈ったが、ムン氏は「短期間に6000本を超える桜を集め、米国に贈れるのか、納得がいかない」として、日本が済州島の桜を採取して贈ったものだと主張。
同時に「今からでも、済州で1911年ごろにソメイヨシノが採取された記録があるかもしれない。
政府レベルで隠された歴史の発掘に乗り出すべきだ」と訴えている。

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このムン・ギソン氏への反論を下記に書きます。

済州でソメイヨシノが採取された記録が存在するなら見てみたいものです。
『短期間に6000本を超える桜を集め、米国に贈れるのか』と書いていますが、短期間ではありませんでした。
それに、当時の朝鮮で桜の苗木を栽培する技術があったでしょうか。
身の程知らずです。

桜の木をワシントンD.C.に持ち込もうという試みは1912年(明治45年)3月に植樹される十数年前から行われていたのです。
1885年、ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事であったエリザ・シドモアは初の日本旅行からアメリカに帰国し、公共施設・公有地庁のアメリカ陸軍管理者に対して埋め立てが行われたポトマック川河畔沿いに桜の木を植えることを提案した。
この提案は拒否されたが、シドモアはすべての管理者にその後24年間提案し続けている。
この時期、個人によって数本の桜の木がこの地域に持ち込まれました。

その後、エリザの活動とは別に、1906年、フェアチャイルドは日本の横浜植木社から1000本の桜の木を輸入し、自らの所有するチェビーチェイスに植樹しました。
フェアチャイルドはその結果に満足して、1907年にワシントン地域の道に植えるのに適した樹木として日本の桜の促進を始めました。
9月26日、フェアチャイルドの友人の助けによってチェビーチェイス・ランド・カンパニーは当地に植える300本の東洋の桜を発注した。
1908年、フェアチャイルドは植樹祭を守るためにすべてのワシントンD.C.の学校の校庭に植える桜の苗木を寄贈した。
エリザ・シドモアが参加した植樹祭のスピーチで、フェアチャイルドは当時タイダルベイスンの周辺に存在した"スピードウェイ"を"桜の道"に変えることを提案した。

1909年8月30日、在アメリカ合衆国日本国大使館はアメリカ合衆国国務省に東京がアメリカ合衆国に2000本の桜を寄贈し、ポトマック川沿いに植えようとしていることについて伝えた。
桜は1910年1月6日にワシントンD.C.に到着した。
フローラ・W・パターソンが主導する農務省の検疫チームが調べていたところ、桜に昆虫や線形動物に汚染されているのを発見した。
農務省は検疫結果を見過ごすことはできず大統領に処分を提言、止むなくタフト大統領は1月28日に焼却命令を出した。

この知らせを聞いた日本の関係者は落胆したが、尾崎行雄東京市長は高峰譲吉博士(金沢市出身)の支援のもと再度桜の寄贈を決定した。
また、ニューヨークハドソン河開発300周年の記念式典に向けさらに3000本、合計6000本の寄贈が決まり、こんどの寄贈は綿密に計画された。

まず1910年(明治43年)3月、農商務省農事試験場長の古在由直農学博士から害虫駆除、苗木づくりについて助言を受け、旧清水市興津にある農商務省農事試験場園芸部が苗木づくりにあたった。
苗木は台木として兵庫県川辺郡東野村(現・伊丹市)の山桜からの挿し木で準備され、これに植物学者の三好学、品川三ツ木にあった妙華園の河瀬春太郎らの協力の元、荒川堤の桜並木が興津に集められて台木に接ぎ木された。
集められた桜の種類は12月には59種類にもなった。
翌年2月14日、12種類、3020本の桜の苗木が阿波丸に乗せられ横浜港からシアトルへ出航した。
シアトルからは鉄道車両を経由し3月26日にワシントンD.C.に到着した。

以上、韓国人ムン・ギソン氏が何を言おうと、桜の苗木は間違いなく日本のものです。
イチャモンをつけるなら、キチンと調べてからにしてほしい。
日本を貶めることならなんでもかんでも書いたり言ったりする韓国人(今回は在米韓国人でしたが)は本当に困る。

さて、その後を少し書きましょう。
1912年3月27日に式典が行われ、アメリカ合衆国のファーストレディであるヘレン・ハロン・タフトと、日本大使珍田捨巳子爵の妻・珍田いはがタイダルベイスンの北岸の西ポトマック公園で最初の2本の桜の植樹を行った。
式典の最後にはタフト夫人が珍田夫人に「アメリカン・ビューティー」の名が付いたバラの花束を贈っています。
この2本の木は第17通り南西の端に現在もあり、大きな銘板で、アメリカン・ビューティーの最初の2本であることが示されています。

1913年から1920年にかけて、寄贈された桜のうち、おおよそ1800本程度の染井吉野がタイダルベイスンの周りに植えられました。

残りの11種類と残りの染井吉野は東ポトマック公園に植えられました。

1915年から、アメリカ合衆国政府は返礼としてハナミズキの木を日本へと贈っています。



2015年4月6日

天皇皇后両陛下によるパラオ共和国への行幸啓が8日からおこなわれます。
両陛下のお風邪は大丈夫でしょうか?
ご公務は両陛下のご健康第一でお願いいたします。

さて、そのパラオからすばらしい一枚の写真が届きました。
昨日のネットでご覧になった人もあるかもしれませんが、この写真を見て胸が熱くなるのはなぜなんでしょうか?
目からも「汗」が出てきました。
皆さんにも是非見て頂きたい。


この写真には以下のキャプション(説明)が付いています。

《パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船 「てしお丸」。この船と乗組員たちの命日3月30日に 自らその船体に潜り献花黙祷を捧げるのは トミー・E・レメンゲサウJr. 現パラオ共和国大統領です。》


日本人が忘れていてもパラオの人々は忘れていなかった。
日本人の一人として誠に申し訳ありません。
感謝です、潜水して献花等思いもよりませんでした。
ありがとうございます、大統領。

日本の近隣には日本を非難する国もありますが、パラオのように親日国の方が多いことを知って下さい。



2015年4月5日
 庭の琉球薄墨桜の蕾です。


昨日は韓国での「ソメイヨシノは韓国起源」を否定しましたが、今日は中国科学院植物研究所が「桜は中国原産」と発表しました。
そこで今日は中国に対する桜のことを書きましょう。

「桜」は学術的にはバラ科モモ亜科スモモ属であり、多くの品種の総称です。
しかし、一般に言われる「桜」は人工的に作り出され、広く栽培されている品種のことを指します。
そのため、野生の桜と人工の桜は科学的にはまったくの別物です。
人工的に栽培された桜は、品種が非常に多いため、いくつかの種類に分けられます。
カワヅザクラに代表される早咲き種、ソメイヨシノに代表される中咲き種、カンザンザクラに代表される遅咲き種など、開花の時期によって分類する方法もあれば、桜の花の直径などによる分け方もあります。

現在では、さまざまな品種があるが、その祖先である野生の桜の種類は多くありません。
すべての人工栽培の桜は、野生種をかけあわせて生まれたものなのです。
そのため、人工の桜の起源を論じるときは、その祖先に当たる野生の桜の種類を調べなければなりません。

自信を持って言えることは、人工栽培の桜のほとんどが、オオシマザクラ、カスミザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンザクラ、カンヒザクラの5つの野生種から生まれているということです。
この5種のうち、カンヒザクラを除く4種は日本の野生に分布しているもので、オオシマザクラは伊豆や房総半島が原産の日本の固有種です。

オオシマザクラは人工栽培の桜の「核」と言っていいもので、多くの種類がこのオオシマザクラの血統を有しています。
たとえば、カンヒザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンザクラを、それぞれオオシマザクラとかけあわせて生まれたのが、カワヅザクラ、カンザンザクラ、ソメイヨシノです。
つまり、現代の人工栽培された桜の品種は、明らかに日本の特色を有しているのです。
これらの種類は、その核となるオオシマザクラさえ分布していない中国では、誕生することはほぼあり得ません。

上記の5種類の祖先に当たる桜のうち、カンヒザクラは沖縄県の石垣島に分布していたが、これはおそらく中国華南から伝わったもので、日本原産ではないというのが日本の学会の多くの意見です。
しかしながら、カンヒザクラは長きにわたって中国で開発されてこなかった。
日本に伝わり、日本人の手によって初めて、人工栽培の桜のシステムの中に組み込まれたのです。
カンヒザクラの血統を持つ品種であっても、その起源は中国ではなく日本であると言うことができます。

野生の桜の起源はまったく別の問題です。
もちろん、現生する100余りの野生種の原産はヒマラヤ山脈地域で、それが現在の日本列島に伝わったとされているのは確かですが、これらは国も人間も存在しない数百万年前のことなのです。
桜の起源を主張する中国人は、多く日本の「桜大鑑」の「桜の起源はヒマラヤ地域」という記述を証拠としています。
しかし、それは野生の桜の起源であり、人工栽培された桜の起源ではありません。
つまり、一般の人が理解している「桜」の起源ではないのです。
中国の一部の専門家はこの点を混同して人々に誤解を与えている。
以上が中国に対する反論です。

さて、以下は韓国に対してです。
人工栽培の桜の起源をめぐる日韓の論争については、中国との問題とは異なります。
韓国人の主張は確かに日本人植物学者の仮説として以前は存在したのです。
韓国の済州島と全羅南道南部には野生の「王桜」があり、形はソメイヨシノと非常によく似ています。
そのため、1932年に日本の植物学者・小泉源一氏が「ソメイヨシノの起源は王桜である」との仮説を立てた(この仮設が間違い・・・、韓国に取り入られる隙を与えました)。
しかし、その後、ソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンザクラをかけあわせたものであるという証拠が次々と見つかった。
2007年には分子研究の結果、王桜とソメイヨシノは別の種であると証明されています。
この時点で、小泉氏の仮説は否定されており、これを韓国が再び持ち出すことは科学の精神に反します。

桜の起源を簡単に説明せよと言われれば、「人工栽培された桜(染井吉野もその一部)の起源は日本であり、他国は口出しするな」としか言いようがないのです。

更に染井吉野を詳しく書くと、染井吉野はエドヒガンザクラとオオシマザクラを人工交配させることによって生まれたものに間違いはなく、最近の分子研究によっても証明されています。
人工交配のハイブリッド種で自然繁殖しないため、韓国が原産地という言い方はおかしい。
韓国側はDNA解析までして、ソメイヨシノは王桜だと言っている。
ではそのDNA解析は間違いだったのでしょうか。
私は間違いではなかったと思います。
韓国のDNA解析ですから精度に不安はありますが、仮に間違いではなかったとしても反論できる確証があります。
その解析に使われた桜は染井吉野ではなく、王桜だったと思うからです。
韓国にある染井吉野はすべて日韓併合時代に日本人によって植樹されたもので、韓国では染井吉野も王桜も同じ名で呼ぶところから、混同があるのです。

竹島を韓国では独島と呼んでいます。
しかし、韓国の竹島は別にありました。
歴史的に韓国は竹島を混同しているのは間違いありませんが、認めていません。
それと似たようなことが染井吉野にも起こっているのです。



2015年4月4日


毎年最後まであるデッキの雪は昨日の午後に全て溶けました。
庭の琉球桜と山桜の蕾も大きくなりました。

やはり日本の春は桜ですね。
そして桜と言えば染井吉野ですね。




先月末に韓国の新聞、漢拏日報は済州島でソメイヨシノの自生木100本が発見され、「日本との起源論争に終止符が打たれた」と報じました。
それを報道した日本のマスコミもありました。
相変わらず日本のマスコミには呆れ果てます。
韓国が言ったことをオウムのように何も考えず、何も検証せずに報道するのですから。
ソメイヨシノが韓国起源!?
少しは調べてから記事にして欲しい。
韓国で日本のことが書かれたら何でも記事にしてしまう日本のマスコミの体質はいつまで経っても変わりませんね。

100本もの多くの自生木が何故今頃になって発見されたのでしょう?
この質問だけでも「ソメイヨシノ韓国起源説」が間違いだと覆させられます。

なんでも韓国起源にしてしまうのはかの国のオハコなのですが、まさか染井吉野まで韓国起源と言い出すとは・・・。

染井吉野は江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた植木職人達によって日本原産種のエドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれ、育てられていました。
初めサクラの名所として古来より名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山にちなんで「吉野桜」として売られていました。
それが明治になって上野公園のサクラの調査によりヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かりました。
「吉野桜」では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名されました。
その翌年には松村任三が学名をつけました。
学名は「 Cerasus × yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil. ‘Somei-yoshino’」です。
この何処が韓国だというのでしょう。

ウキペディアを読むと「エドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれたと考えられる」と記されていて、まるで確かではないように書かれています。
きっとこれは韓国が数年前から言い出した「ソメイヨシノ韓国起源説」が理由で「考えられる」と記しているのでしょう。

以前に韓国が「フェンシングは韓国が発祥の地」と言い出したことがありました。
その時、フランスの人々はネットでおおいに反論しました。
それ以後、韓国から「フェンシングは韓国が発祥の地」という発言はなくなりました。
染井吉野も大いに反論します。

前述の通り私は漢字で「染井吉野」と書いています。
日本のものなのに「ソメイヨシノ」とカタカナで書くから外来種のように思われるのです。
新聞でも、日本のものは日本の表記をしてほしい。
「染井吉野」は難しい漢字ではありません、読めない人もいないでしょうに。




2015年4月3日

先日Bill Evansの『Sunday at the Village Vanguard』を聴いていてあることに気づきました。
そのあることは後述しますが、まずはそのアルバムのベーシストであるスコット・ラファロ(Scott Rocco LaFaro)についてお話しします。
今日は彼の誕生日なのです。


Sunday at the Village Vanguard Scott LaFaro

ラファロは本名をScott Rocco LaFaro といい、1936年4月3日ニュージャージー州の生まれです。
Roccoという名前からも察しがつくように、イタリア系の人です。

1961年、ニューポートジャズ祭の後、女友達のところで酔っ払い、ビル・エバンス等が止めたにも拘らずドライブに出かけ、路傍の樹木に激突して夭折した。
享年35歳。
活躍の期間は3,4年に過ぎない。

今でも生きていればまだ79歳だから、元気でプレーしていたかもしれません。
19歳でプロデビューを果たし(1955年Buddy Morrow オーケストラ)、その後 ChetBaker、Joe Gordon、Cal Tjadar、Victor Feldmanといった西海岸の人達と共演。
そしてBenny Goodmanのオーケストラでニューヨークへ進出、以降有名なBill Evansのトリオで名を高め、次第に前衛派と目される Booker Little、Eric Dolphy、Ornette Coleman といった人達に接近していきました。
彼の死の直前のニューポートジャズ祭には、Stan Getz のグループのベーシストとして最後の演奏をしました。

ラファロという人は若い頃、サックスを吹いたり、一頃、リズムアンドブルースのグループにも在籍していたそうです。
その影響のせいか、この人の演奏を聴いていると、初期から晩年まで、他のプレーヤーと感覚、考え方がちょっと違うのではないかと思うことがあります。
いつごろからあのようなバッキングとソロをやっていたのか分かりませんが、初期の録音を聴いても、一聴、『あっ、ラファロだ!』と直ぐ分かる特徴的なプレーがあります。

Bill Evansとの共演盤は名演奏が目白押しで、ピックアップに困りますが、ヴィレッジ・ヴァンガードの録音は音も非常に良く名盤の名に恥じません。

さて、ここからが今日の本題であるあることに気づいたお話しです。

ビルエヴァンス・トリオの数々の名演の中でも、この日、1961.6.25の日曜日、リバーサイドレーベルに遺したヴィレッジヴァンガードでの演奏は、ジャズ史上、決して忘れられない出来事となりました。
プロデュースしたオリンキープニュースによれば、この日もビルエヴァンスは収録にあまり乗り気ではなかったというのです。
そのうえ、当日は日曜日ということもあり、クラブのお客の入りは少なかったという。
また、当時はこのトリオはまだあまり知られていなかったこともあり、来ているお客も彼らの演奏よりは、むしろおしゃべりとお酒と食事のほうに夢中になっていたようです。
このことが逆に彼らトリオにとっては、自分たちの演奏に心から集中できたというのですから、おもしろいですね。
自分の演奏にはいつも満足していなかったというエヴァンスも、この日のトリオの演奏はご満悦だったというのです。
確かに、演奏中に聞こえてくるグラスがぶつかりあう音、会話、笑いなどが、本来なら騒音としてうるさいはずですが、それさえもこのトリオの息のつまるような繊細なインタープレーの一部かと錯覚してしまうほどに聞こえてくるのですから不思議です。
私は何度聴いてもこの日のトリオに惹きこまれてしまうのです。
心の奥深くにまでしみ込んで、いつの間にか彼らと一体になってしまっているのですね。

唐突ですが、この『Sunday at the Village Vanguard』を聴いていて1960年代の録音技術が一番素晴らしかったのでは?と思ったのです。
特性的には現在の録音が勝っているとは思いますが、クリアーではあっても何か大事なものがスッポリ抜け落ちているように思えてなりません。
これは例えは悪いが、山で飲む水は都会の水ほど清潔ではないし、鉄分や不純物、果ては大腸菌まで入っているかも知れないが実に美味しい。
それに比べ、今の録音がまるで蒸留水でも飲むかのような味気なさを感じたのです。

ラファロのベースの音量は小さかったそうです。
なのにしっかりと録音されており、しかもインタープレイはスバラシイ。

このライブの10日後に、ラファロが交通事故で亡くなってしまいます。
エヴァンスはあまりのショックに、この後半年くらいはピアノに触れることはなかったといいます。
いずれにしても、リバーサイド、そしてオリンキープニュースへの感謝と、奇跡とも思えるこの幸運をかみしめながら、この日の名演を静かに聴くことにしましょう。





2015年4月1日

4月になりましたね。

昨夜、数年ぶりに聴いたバーニー・ケッセル(Barney Kessel)のアルバム、『Some Like It Hot』はジャケット買いをされる人は絶対に買わないだろうと思うアルバムです。
そんなアルバムを私は何故聴くのでしょう。

野暮なジャケット写真です。
しかもこのアルバムの邦題が『お熱いのがお好き』というのも野暮ったい。

1959年、ジャック・レモン、トニー・カーティス&マリリン・モンロー主演、ビリー・ワイルダー監督で大ヒットを記録した、ドタバタお色気コメディ『Some Like iT Hot(お熱いのがお好き)』に使われた曲をジャズとして吹き込んだアルバムです。
ですからジャケットの写真は映画のワンシーンで、マフィアが経営するクラブでセクシーなお姉さんたちが歌い躍っている写真です。

このアルバムは映画のヒットにあやかった企画物で、硬派なジャズ・ファンにはそっぽを向かれそうなアルバムです。

ジャケット、邦題、企画・・・、なんともパッとしないアルバムです。

それなのに私はこのアルバムをLPレコード、CDともに持っています。

レコードを持っている人は、CDを買わない人も多いと思いますが、このアルバムはCDも買われることをお勧めします。
このCDには宝物が隠れているのです。

お教えしましょう。
宝物はボーナストラックである7曲目の『Runnin' Wild』の別テイクです。
このテイクは6分31秒とオリジナルテイクの2倍の長さがあり、おそらく長すぎてボツにされたんだと思います。
このテイクの後半では壮絶なアドリブバトルを聴くことが出来るのです。
4分40秒あたりから2小節ごとのアドリブ合戦に入りますが、こんな速い曲で2小節のアドリブの掛け合いとは驚きです。
アート・ペッパー(as)ジョー・ゴードン(tp)、ジミー・ロウルズ(p)、バーニー・ケッセル(g)そしてシェリー・マン(d)・・・名人達の職人芸を聴くことができるのです。

録音されたのは1959年です。
1959年といえばマイルス・デイビスが『Kind Of Blue』でモードジャズを確立し、一方ジョン・コルトレーンは『Giant Steps』を発表、シーツ・オブ・サウンズを完成させた時期でした。
そんなジャズ激動の時代、ウエストコーストでもジャズの達人たちがすさまじいレベルで燃えていたことの証がここに刻まれているのです。
ロサンゼルスのスタジオにも、ニューヨークのマイルス、コルトレーンのスタジオに負けない緊迫感・熱気が漂っていた証です。
2015年5月2日